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2020.12.24 /
第64回:迎賓館
迎賓館とは、外国の賓客を歓迎し、もてなす為の建物と言われています。 お正月は、年末の大掃除を行って、松飾りをあしらって、おせち料理を用意して、かつて私の家は商家だったので年始のお客様をお迎えしたりしていました。 最近は里帰りの子供たちが帰ってくるだけですが、それでも小さいながらも我が家は迎賓館となります。今回は新型コロナウイルスの影響で少し違ってきて残念ですね。 迎賓館の話をもう少し掘り下げてみたいと思います。 渡邊工務店もオフィシャルの迎賓館の建設に携わったことがあります。 1989年の世界デザイン博覧会で迎賓館として利用された「清羽亭」です。 水辺に舞い降りた白鳥をイメージした数寄屋造りの茶室で、池とのバランスが落ち着いていて平屋の建物が景色に溶けるようです。 その場所は名古屋市熱田区にあり、その名も「白鳥庭園」です。 設計は中村昌生先生です。 愛知県生まれで、京都工芸繊維大学名誉教授、福井工業大学名誉教授、京都伝統建築技術協会理事長等を歴任されました。2018年91歳で逝去されました。 渡邊工務店も清羽亭の施工にあたり様々なご指導を頂きました。 また日本国の迎賓館である京都迎賓館においては京都迎賓館伝統的技能活用検討委員会委員長として深く関わって来られました。 2005年に開館した京都迎賓館は、多くの京都在住の職人が衣食住に係る日本の技術の粋を結集して作られた施設で、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れた時に、会食や宿泊等の接遇を行います。 ▲京都迎賓館正面玄関(内閣府迎賓館ウェブサイトより) それまでは現在の迎賓館赤坂離宮がその任を請け負っていました。 明治期において本格的な近代洋風建築のネオ・バロック様式宮殿建築として建てられました。晩餐会の風景もフランス料理がメインだったと思います。かつての日本が欧米の列強に追い付け追い越せの時代背景から考えると、当然だったのかも知れません。 それを見て京都の料理人は、いつかは和食の日本料理で晩餐会を開催したいと思っていたようです。 現在の京都迎賓館の晩餐会は、京都の老舗料亭が持ち回りで対応されているとのことです。 ▲迎賓館赤坂離宮正面玄関(内閣府迎賓館ウェブサイトより) 時を経て、和食、和食器、和家具、数寄屋建築、日本庭園等の日本の匠の技で最高のおもてなしを誇れるようになったことを嬉しく感じます。 最初の話に戻りますが私のような市井の日本人も、衣食住の匠の技に触れる機会は多くなりました。また、年を重ねるほどそのような機会は増えて、感慨深くなります。 人生の時間軸は長く、そして成熟化していくと考えたとき、日本の匠の技に触れる機会が増えることは、豊かな暮らしにつながるように思います。 素材としての天然木のこだわり、自社大工の匠の技、2021年で114年となる業歴等は、渡邊工務店が他社と大きく異なる存在意義としてご理解いただけると思います。 渡邊工務店の住宅に対する思いは、「清羽亭」をはじめとして、社寺や数寄屋建築に携わった自社専属の大工が建てる天然木の木造建築に暮らして頂ければ、上に述べたそれぞれの迎賓館の歴史の流れの意味するところと少し通じるように思います。 渡邊工務店の家造りについて詳しくはこちら 熟練大工の匠の技について詳しくはこちら 渡邊工務店の歴史について詳しくはこちら -
2020.12.15 /
第63回:“鬼滅の刃”を見て鬼を想う
テレビアニメで鬼の描き方に感じるものがあったこともあり、先日話題の“鬼滅の刃”をイオンシネマで見てきました。 評判通りの良い映画だと思いました。 こちらは、私が思う現存する“鬼滅の刃” 国宝 太刀 童子切安綱 平安時代・10~12世紀 のホームページよりリンク 鬼退治の伝説で登場するのですが、平安時代の武将源頼光が京都北部の大江山で暴れていた鬼の“酒呑童子”を退治したとき、その首を切った名刀でその名も“童子切安綱”と呼ばれています。 安綱とはこの太刀を作った刀工、伯耆安綱のことです。 一説によりますと、当時大江山近辺は鉱山で栄えた裕福な地域でした。 そこに目を付けた都の勢力が、武士を派遣して制圧し富を侵奪したという背景があり、討伐の歴史を鬼退治伝説として伝え、討伐した人たちを鬼と呼んだという話もあります。 歴史的に見て鬼といわれるのは、滅ぼすべき敵であり、勝者からみた敗者の立場の人たちです。 “鬼滅の刃”は、鬼にならざるを得なかった人たちにもスポットライトを当てているところが大人の鑑賞にも耐えられるアニメの所以かなと思いました。そういえば、当初は深夜放送のアニメだった事もうなずけます。 ひょっとしたら、家を建てる時の“鬼門”にもそんな鬼たちの悲しいストーリーがあるのかもしれません。 かつて中国でも日本でも、昔の都から見て鬼門(北東)の方角の敵を退治したり、防御のために戦ってきたりした為、その人たちを鬼と呼んでいたと思います。 これは歴史の勝者の論理で、もし負けていれば敗者の鬼として歴史に扱われていたかもしれません。 そう考えると、鬼門の習わしは歴史の勝者の体験を踏襲し縁起にかかわる風習だと思いますので、今を生きる人間として大切にしていきたいと思います。 しかしながら、“鬼滅の刃”を見た後では、鬼たちにも思いを馳せる気持ちも湧いてきます。 そういえば以前、キャチコピーの勉強をしているときのあるフレーズを思い出しました。 「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」というキャッチコピーで、「しあわせ」をテーマにした2013年度新聞広告クリエイティブコンテストの最優秀賞作品です。 桃太郎の物語も、立場によって本当に「めでたし、めでたし?」を問い、何かを考えさせるエッジの利いたコピーとして話題になりました。 当時は物事の本質を深く考えるきっかけになるとして、「学校の教材」にもなったそうです。 私は家の間取りを考える時に鬼門に拘りますが、“鬼滅の刃”のストーリーように鬼のことを想うと感慨深いですね。 ■最寄りの展示場について詳しくはこちら ■資料請求はこちら -
2020.12.10 /
第62回:長寿命住宅とリフォーム事業
多くの住宅会社が木造住宅の長寿命をアピールする場合に、世界最古の1300年を超える歴史を持つ木造建築、「法隆寺」のたとえをするケースあります。 なぜこんな話をするかというと、ある本でこんな話を読んだからです。 「法隆寺を建てた大工は、1,300年もつものをつくったのではなく、1,300年もたせるに値する建物をつくったのです。」というくだりです。 老朽化し、欠陥がでてきても修理と補強を繰り返し、その建物を愛し生かし続けさせようという匠の技の大工の維持管理があってこそ、1300年も残ってきたものと語られていました。 (参考:岩波新書 建築工学者、東京大学名誉教授坂本功著 木造住宅を見直す より) もちろん、法隆寺は建物の中心にある「心柱」を中心に5重の塔が緩くつながり、柔構造で地震の強い揺れを受け流すような地震対策をとっており、地震対策の建築としても凄いです。 現在の東京スカイツリーも同様な仕組みだそうですね。 また、法隆寺の建造物で使われている木材は、木材の中でも最高レベルの耐久性と保存性を誇る桧(ひのき)を使っています。 一般的に、適正に管理された桧は伐採後の100~200年で少しずつ強度を増して、1000年が経過するまで強度は建築当初とそれほど変わらないとも言われています。 法隆寺の桧の柱には当時の大工や僧侶のほか、多くの参詣の人々の皮膚感覚が残っていると思います。 そう考えると、ロマンを感じて感慨深いですね。 日本の古い町並みや古民家、社寺も同様ですね。 木の特性を無視した集成材や新工法では難しいかもしれません。 そんな愛のない家は長寿命の気力も伺えず、30年ぐらいで滅失してしまうようになるのかも知れません。 しかしながら、法隆寺も長い歴史の中で火災に遭遇し、大修繕を繰り返したりしています。また、日々建造物を維持管理する大工によるメンテナンスは欠かさず行われていたことと思います。 昔から大きな社寺には宮大工集団の大工の組織があったとのことです。 そんな役割を渡邊工務店も担っていければと思っております。 渡邊工務店は、「百年住み継ぐ家」を目指し、維持メンテナンスの仕組みとして「60年保証システム」を取り入れています。 この仕組みのベースになるのは、法隆寺を建造した大工の心と同様に天然木のこだわり、匠の技、113年の社歴です。 その為にリフォーム事業も大切に育てています。 もちろん、世の中のリフォーム会社の主な業務となっている、住宅設備の交換や内装外装のやり替えも守備範囲です。 しかしながら他社との大きな違いは、自社専属の大工によるリフォーム工事に特色があり、渡邊工務店で建てていただいた建物の大規模リフォームや古民家再生、マンションリノベーションでは、専属大工だからこその出来映えにご満足いただけると思います。 欧米の家は慈しみ手をかけた「百年住み継ぐ家」として維持メンテナンスされるので、結果的に長寿命住宅になっていると思います。 各国の家への手のかけ具合いの比較では日本が一番低いのが残念。 愛しい家が地域に愛され誰かに住んでもらえるレベルが、日本が一番低いのは悲しく思います。 せっかく建てた愛すべき家が、壊されて社会資産として継承されないことは国の損失でもあると思います。 百年住み継がれる住宅が日本の当たり前になるといいですね。 ■多彩なリフォームについて詳しくはこちら ■最寄りの展示場について詳しくはこちら ■資料請求はこちら