2022.05.17 /
今回はバウハウスを紹介したいと思います。
ドイツ語のバウハウスとは1919年にワイマールに誕生し革新的教育を行った芸術学校のことです。
「建築の家」との意味で初代校長のヴァルター・グロピウスが名付けました。
近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウス)の内ミース・ファン・デル・ローエとヴァルター・グロピウスの2人がバウハウスに関わっています。
バウハウスは1933年ヒトラーのナチスにより、わずか14年間で閉校に追い込まれました。
しかし、その思想は後の世界の建築デザインや工業デザインに大きな影響を与えました。
バウハウスとその関連遺産群は、1996年世界遺産に登録されています。
工芸と美術が合併して発足したバウハウスの初代校長のヴァルター・グロピウスは「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう」と呼び掛けました。
大工や職人の確かな技術を重んじる渡邊工務店の一員として嬉しい言葉です。
技術や機能を伝承する職人の心は合理主義・機能主義を重視することになり、バウハウスの中心的な価値観としてその後の工業デザインを進化・発展させる基になったと思います。
「iPhone」や「IKEA」の美しくシンプルで機能性を重視したデザインに受け継がれています。
日本では、グッドデザイン賞に参加するような企業に影響を与えているように思います。
その中にはバウハウスコレクションを所蔵している企業もあります。
バウハウス発祥で私たちの生活の中の使い慣れた家具として有名なものにスチールパイプ椅子があります。
それは1925年、バウハウス出身のマルセル・ブロイヤーがデザインした「ワシリーチェア」から始まります。
マルセル・ブロイヤーは鋼管という素材に注目し、多くの家具をデザインしました。
このアームチェアは自転車のハンドルからヒントを得て鋼管を椅子に使うことを思いついたと言われています。
木彫の重厚なデザインの家具が当たり前な当時、鋼管を屋内用の椅子に使用することは画期的なことで、その後の椅子のデザインに大きな影響を与えた椅子です。
バウハウスの美術教官で画家のワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)が愛用したことから、彼の名を取り「ワシリーチェア(Wassily Chair)」と命名されました。
私がバウハウスを知ったのはワシリー・カンディンスキーの絵画がキッカケとなります。
ポスターを額に入れて部屋に飾っているほど気に入っています。
線と面と角が際立ち音楽も感じてバウハウスだなと思うのは私の個人的感想です。
ワシリー・カンディンスキー 「コンポジション-8」
私は46年前に、あるレコード店でレコードジャケットの絵が気に入りLP版レコードを購入しました。そしてその絵の画家のカンディンスキーを知り、バウハウスを知りました。
あっという間の46年でしたが、建築や住宅の仕事に興味を持つキッカケとなり、私の職業人生に大きな影響を与えたレコードジャケットで今でも大切にしています。
ワシリー・カンディンスキー 「即興画 7」
渡邊工務店の創業は明治40年で西暦1907年です。
バウハウスが誕生する12年前となります。
100年という歴史の重みを感じるとともに、自身の人生を振り返っても時間は思ったより早く流れるように感じます。渡邊工務店の「天然木で建てる百年住み継ぐ家」が本物として評価されるよう、これからも末長く歴史を積み上げていかなければいけないと思いました。
バウハウスが数寄屋の心に通じるところもあるようです。
「バウハウスと茶の湯」の著者山脇道子は1930年、夫で建築家の山脇巌とともにバウハウスに入学しました。
実際にバウハウスで学んだ経験がある山脇道子さんのコメントで、「私は茶の湯の世界に生まれ育った人間です。そんな私が、何も知らないまっさらな頭でバウハウスに学びはじめて、あっと思ったことがありました。それは、 バウハウスと茶の湯 はとても似ているということです。突拍子もないことに聞こえるかもしれませんが、いずれの世界にも共通しているのは、シンプルかつ機能的であることを良しとし、材質の特性をできるだけそのまま生かそうとする姿勢です。このことに気づいた時、バウハウスでやっていけると初めて自信を持てたような気がしました」とあります。
ドイツでも日本でもシンプルで機能的な素材を活かすデザインは、相通じるものがあるように思いました。
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